吉田隆一 特別寄稿

例えば「ジョン・ゾーン」という名前を初めて聞いたという方がこの映像を観たら、どんな音楽家だと思うでしょう。多くの方はまず、既存のカテゴライズの何処に当てはまるのかと思案するはずです。サックス奏者として認識し、音楽とその楽器編成からジャズミュージシャンと認識するかも知れません。しかしそれはすぐに「?」に置き換わります。「作曲家?プロデューサー?」というように混乱することでしょう。そしてその疑問は映像を見続けることで徐々に納得に変わります。即ち、スケールが大きく、とても魅力的な人物が、カテゴライズ不能な音楽を作り続けているという唯一の事実を知るのです。


 かつて日本でのジョンに対する認識は、先の例で言えば最初の段階……即ち「アヴァンギャルドジャズ文脈」での理解にとどまっていました。しかし音楽家はもっと直感的にジョンの実質を見抜いていました。実際、ジョンの影響を強く受けたのはジャズミュージシャンではなく、ジョン同様にカテゴライズ不能な、1人1ジャンルのような音楽家ばかりだったのです。そして強いて言えばジャズよりもロックに寄っています。その理由も、映像を観ることで理解できるのです。


 この映像を通じて、ジョンの音楽が極めて身体的なのだと実感できるでしょう。ジョンの音楽のコンセプトの軸はポストモダン的な解体再構築です。その「構造」から、かつて(今も?)ジョンの音楽は観念的に語られがちでした。しかし実際の製作過程は思索的というより肉体的です。身体に負担をかけることで得られる効果こそが「ジョンの音楽」を生むのです。この映像には、マーク・リーボウが「楽譜を読める音楽家」と作業するようになったジョンを揶揄するシーンがあります。20世紀に於けるジョンの共演者、というより「共同作業者」達は、ジョンの音楽を「身体」で理解したのです。それこそがロック寄りに理解者が多い理由でもあるでしょう。ジョンの音楽には、ジャズ的な意味での「個人の自由」は(プロジェクトによりますが)さほどありません。しかし、即興の要素がなくとも肉体の律動により得られる「ロックの開放感」と同質のものがあるのです。

 

 それは時に高いハードルにもなります。映像終盤に登場する声楽家バーバラの苦闘がそれです。音に対してジョンが求める身体性が、音楽家がそれまで身体を用いて追求してきた蓄積とぶつかるのです。負担をかけることで音が身体性を得ると考えるジョンの、その課した負担が技術課題として立ちはだかります。非常にスリリングな共同「作曲」作業であり、闘いです。

 本作がジョンという稀代の音楽家を知る一助となるように願います。


吉田隆一(バリトンサックス奏者/作編曲家)